吐き気を覚える程の、薄汚れた空気と、叫びたくなる程の喧噪の中。
ざわめきとは縁遠い路地裏で、どうしようもなく立ちつくす少女と、呆気に取られた青年は、兎にも角にも邂逅を果たした。
「…あー、」
所在なさげに頬を掻き、青年――ツラヌイは声を発した。青年、とは言ったものの。
その外見は茫洋(ぼうよう)として漠然として酷く曖昧な、幾つにも見えるものだった。
しかしながら、それについてはさして触れる意味はないので、ここは省いておくとしよう。
「っと。あんた、何で此処にいるんだ。」
「っ、」
びくり、と少女は体を震わせる。
くしゃくしゃになったベージュのコートに、デザインこそ新しいものの、何処か古っぽい衣服。
あからさまに男物のコートと、明らかに大きな服。
地味を絵に描いた出で立ちのくせに、よく見るとなかなかに愛らしい顔立ちをしていた。
「や、別に怒っちゃいない。唯、あんたみたいなのが此処に居るってのが、少しばかり気になった。」
どう見てもあんた一般の奴だろう?軽く首を傾げると、僅かばかりに眉を寄せ、同じように首を傾けた。
…本人に真似をしたつもりはないのだろうが、何となく間抜けに見えてしまう。
「あのさ、俺は質問したしそれをするまでの経緯を話した。だったら次はあんたが言う番だ。」
「…。」
再び首を傾げようとして、ほんの僅かに逡巡すると。自分でも判らないのだと言わんばかりに、じっと此方を凝視した。
「―そうか、解らないのか。それは困った、いや困らない。畜生、訳わかんねぇ。」
「…。」
少女はそれはこっちの台詞と言いたげに、少し強めに眉根を寄せた。
言いたいことを表情で表せるあたり、妙な器用さを感じてしまう。
それについても、大したことはないのだけれど。
「あぁまぁ兎に角、さっさと離れておくんだな。見た通りろくな場所じゃない。何、そんなの見りゃ判る?ならさっさと行けよ、立ち去れよ。」
しっしっ、と手を振って、面倒そうに顔を歪める。それもそうだ。
安全で安定して安寧な「都市」と違い、不安定で不確定で不完全な「路地裏」は見るに耐えない劣悪地域だ。
目の前の、幼く小さな子供では、一日と持たずに「工場」の餌食である。
別に、違いは生活環境云々だけではないけれど。
あまり触れるのも煩わしい。
従って、此処は割愛しておこう。
「なに?俺は良いのかって?そりゃ、あんた。俺は「都市」と「路地裏」を行ったり来たり。
中間管理の視察屋(探偵)さ。「探偵(視察屋)」と唄っちゃいるけれど、実際密告してばかり。嗚呼、何てやるせない。
え、何、長いって?悪かったな、人としゃべるのは数年ぶりさ。
ん、報告の時?甘いな、最近は書類という名の紙切れと、少しのデータ(資料)さえあれば、割とどうにかなるもんさ。」
一息に捲し立てると、嗚呼やれやれ、と中折れ帽を被り直す。
――とてもボロい上に、悪趣味だ。そもそも、全体的にぱっとしない。
タキシード(礼服)とは、この様に情けない物だっただろうか。
「まあ、良い。話を戻そう。あんた、何処の出身だ?場所的に言えば、「最深部」か?
ん、何故此処に居るかだっただと?気にするな。時は流れる。同じように、疑問も移り変わるのさ。
おいおい、戻すの意味がない?そりゃあんた。あんたに質問するとこに戻すってことだよ。」
何とも勝手な言い分である。書いているこっちが馬鹿らしくなってきた。
いや、語っている、読んでいる、と言うべきか?阿呆らしい。そんなこと、気にする必要はないのである。
「で、その辺どうな訳?此処であったも何かの縁。家まで送ってやるとしよう。何?何処から来たか判らない?
タグくらいあんだろ、それを見ろ。ん、タグなんて知らない?こんの無知無知。や、語呂が悪いか。まぁ良いか。
へ、気がついたら此処に居た?何だその面白設定。思わず鼻で笑っちまうよ。
何、「え」と「何」を使いすぎ?仕方ねぇよボキャブラリー乏しいんだから。」
んじゃどうすっか、と首を捻る。つくづく疲れる男だ、泣けてきた。
応対する少女も、不安そうに顔を曇らせる。
「ああほらンな顔すんなって。一時的な記憶喪失か何かだって、ありえねぇ。いや、冗談だって。
その内唐突に思い出すかもしんないだろ。取り敢えずぐっすり寝てみれば、少しは変わるかもしれねぇし。
っと、そうだ、そもそも寝床が無いんだな。仕方ねぇ、うちに置いてやる。気に入らねぇなら出て行けよ。
安心しろ、俺も気に入らねぇ家だから。んじゃ、さくさく行こうぜ。」
さっさと踵を返すツラヌイを、慌てて少女が追い掛ける。
ひょろりと長いツラヌイと、小さな少女は、並ぶと凄くちぐはぐだ。
噛み合わないし、調和もない。当事者は、何の意にも介さないけれど。
「そうそう、名前を言ってなかったな。俺は貫井。
『一文から一貫目(いっかんめ)』の貫に、「井戸水が急に減ると地震が来る」の井だ。何、長い説明は省け?
煩ぇ気に入ってんだ、放っとけ。んで、おまえは名前ないのか、お約束。ならしょうがねぇ、付けてやる。
そうだな、五十鈴ってのはどうだ。『五十展転(ごじゅうてんでん)』の五十に『男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ』の鈴だ。
好い名前だろ?善すぎだろ?犬を飼ったら付けようと、十五年前に考えた。――よし、決まりだな。今日からお前を五十鈴と呼ぼう。
…偉く不満そうだな、オイ。決定事項だ諦めろ。」
一方的な会話をしながら、気怠げな、しかし酷く楽しそうな貫井と、不服そうな、それでも何処か嬉しげな少女―五十鈴は、こうして路地裏を去っていく。長く伸びた影を引きずって、整列して整頓して整理された雑踏へと。
この世界がどうだとか、この出会いが何だとか。
とやかく言う気はないのだけれど。
取り敢えず、二人にとってはそんな事、取るに足らない些細な事だという事は、この場を借りて言うべきだろう。